才能と特技の話

 うんこの話だとバンドルが貰えないそうなので今回は少し真面目な話でもしようと思います。


 才能ってなんだと思いますか?特技ってなんだと思いますか?そもそも才能や特技ってなにか説明できますか?


 と問うてみれば大抵の人が口を揃えて「生まれつき持ち合わせた特別なもの」のようなニュアンスな説明をする人がほとんどです。


 果たしてそうなのかと言ったら私は違うと思う。


まず意味から。才能とは「ある個人の素質や訓練によって発揮される、物事を成し遂げる力」とあります。まずここで才能が生まれつきあるものでは無いって証明できてしまいますが、これで終わるのもつまらないのでもっと詰めていきましょう。


 ここでの才能の意味合いは世間一般で言われているイメージに則って話を進めていきます。


 私はつい先日までは才能のことを世間一般の持つイメージと同じだと思っていました。だからこそ小学校では「足が速いやつ」を、中学、高校では「勉強が出来るやつ」を妬んでいる自分がいました。


 何人かは努力の賜だと言う人はいましたが、ある地点では努力で超えられない壁があることを実感していました。


 特に勉強に関して。私の地域で最高レベルの高校、仮にA高校とします。この高校に入れれば大学も様々な選択肢が広がる。なので私は血反吐を吐くくらい勉強していました。親に趣味さえも縛られ勉強。勉強、勉強、勉強勉強勉強勉強勉強勉強勉強勉強勉強勉強勉強勉強勉強勉強勉強勉強。


 しかしテストでは思うように行きませんでした。そのA高校を狙うなら上位10%はないと話にならないとされていました。しかし私は15%からどうしても順位が上がらずじまい。結果A高校には行けず別の高校に進学しました。

 何かしら努力では越えられない壁がある。その壁を乗り越える土台となるのが「能力的な才能」。私はそう思います。

 足の速いやつでも優劣がある。お互いに同じように努力をしても生まれる優劣。これが「能力的な才能」。


こう思っていました。


たしかにこの壁は存在する。


 そして特技。これはよく才能のある人間のみにしか語れないものだとされています。先程述べた「能力的な才能」などを含めて。

 才能のある奴がそれを特技とする。いささかひどい話だと思う。


 私は特技と才能、全く別物だと思う。それもそうだ。言葉が違うから。


 ならなぜそう思えるのか。


 自分の歩んだ人生を見たらそうしか思えないのだ。


 私には今現在、余命数分になった際「自分の特技だと言えると思うものはなんですか?」と問われた際に2つ例を挙げられる。


「水泳」と「絵描き」だ。


 まず水泳。私は小学三年生から水泳を始め、高校三年生で引退。高校生には県大会まで出場できるようになった。

 そこだけを見れば「あぁ、こいつ人よりかは泳げる人間なんだな」とは思ってもらえるかと思う。

だが最初からそうだとは言えないのだ。


 私は小学三年生までは泳ぐことすらままならなかった。クロール?それは私に出来るものでは無い。と言わんばかりに。

 ゲームのように言ってしまえば「水泳」に関する初期ステータスは0だった。

始めた理由としては「水遊びが好きなのに泳げないのはかわいそうだ」という親の想い。

 ここである程度才能があればバリバリ勢いよく成長するだろう。だが私は初期の「けのび」で半年以上費やすことになった。泳ぎの初期中の初期で躓きまくったのだ。もはや向いてないの域だ。


 次に「お絵描き」。

 最近お褒めの言葉を貰う時に人によっては「才能があるっていいね」とか言われることがある。

ないですよそんなもの。何故なら私は画力の初期値にアドバンテージがあったと言えば無いが正解だろう。絵画コンクール、夏休みのポスターコンクール。私の名前はそこにどこにも載っていない。表彰されたこともない。むしろされる奴を妬んだほどだ。

 私には幼稚園の頃からの幼馴染がいる。彼は今現在美大に行くために浪人をしている。私より熱意があるからだ。私にはないのか?だって?そんなロウソクの火などとうの昔に息を吹きかけられた。その幼馴染みと私はよく親から比較対象にされた。彼は勉強ができ、運動もでき、友達も多く、あげくに絵が私より上手いのだ。

私は昔から絵を描くことが好きだった。彼と同様に。彼と共通の趣味に恐竜の話題がよく上がった。2人で同じ前を模写を沢山やった。

小学生の遊びというものは比較的お互いの友達の家で遊ぶことがよくあったため、我が家でやった際に彼の絵がよく家に残されていることが多々あったため、彼の実力も親はよく知っていた。

 そして彼は中学あたりから美大に行きたいという話を聞いたのでその話を親にした。

 そこでの返答が違ったら私の人生はまた別だったかもしれない。

「あの子の道はあなたじゃ歩めないだろうね」

親はもっと別の意味を込めて言ったのかもしれないだろうが、私には「お前には絵の才能がないよ」と言われている気がした。いや断言できる。

 この日、様々な道を考えていた私の選択肢から「美術」の項目が消え去った。


 ここまで整理するとある程度自分というものが見えてくる。「何も無い空っぽの人間」だと。運動神経も無い、不器用、顔も良くない、前に出ればあがり症、勉強の要領も悪い。下手したら凡人以下という初期値。

 WoTをともにプレイした方はある程度わかると思うがぶっちゃけ「物覚えも悪い」。ユーモアでカバー出来てればいい方というレベルの人間だ。


 ここまで並べれば分かるだろう。私に才能なんてない。目覚めてないものがあるかもしれないが、これから社会に出て働き始めればその才能は開花せずに一生を終えることになるであろう。


 だがこんな奴でも人一倍泳げるように、人一倍絵が描けるようにはなった。


 これが才能というのであれば「好きだと思ったことに熱意を注ぐことができる才能」だろう。だが正直これ、誰でも持っている。


 この才能のおかげで水泳は10年ほど続け、絵に関しては今現在7年続けられている。

 そう、特技は元からあるもの、授かったものではなく「自分で作るもの」である。

 そうでなければ私は何も、誰しもの平均以下で彷徨うことになっているだろう。


この誰にでも備わっている才能で私はここまで登ってこられたと思う。

この2つに関してだが親から向けられたイメージは最悪だったとも実感できる。哀れみと軽蔑(?)が正解だろうか?


 才能皆無であり、周囲から向けられた目はとても良くないものなわたしでも特技が身につけられた。

 

 才能と特技は全く別物だ。能力的な才能があるから特技がある訳では無い。「誰にでもある熱意を注ぐことの出来る才能」があるからこそ特技が生まれる。


 熱意があれば、好きなものがあればそれが特技になり、誇れるものになる。私はそう思う。




ってな感じです。演説会みたいなのがあればこれ話したいですね(ちゃんと文章になってるか分かりませんけど)


 真面目な話したのでバンドル貰えると思います。貰えなかったタグで虐めます。


 今回はこのあたりで。ではでは


#うんこじゃなければいいだろKuRoNeCo